はとバスにスーパーハイデッカー時代到来②

  はとバスが1988年の春から導入する一般仕様の車両は一部を除いて国産スーパーハイデッカーとなりました。はとバスが国産スーパーハイデッカーの導入に踏み切った大きな要因の一つは、言うまでもなくいすゞが開発した新型観光バスシリーズの登場でした。いすゞは1985年の東京モーターショーにてスーパーハイデッカーの試作車を展示しましたが、待ちに待った新型モデルへの期待は高まっていました。

「スーパークルーザー」とネーミングされたいすゞの新型観光バスLV7シリーズは、従来の観光バスとは異なる長いFOH/短いWB、並びにホィールの10穴化で重装備、高床化に正攻法で対応しました。他の国産バスメーカー3社がダブルデッカーを登場させるなか、いすゞのみがダブルデッカーをラインアップしませんでしたが、その反面、スーパーハイデッカーは満を持して新モデルを登場させたように見受けられました。当時は従来モデルの徹底した軽量化や後輪を2軸にした3軸車などメーカーによってスーパーハイデッカーには様々なアプローチが行われましたが、徐々にこのLV7シリーズと基本的に同じレイアウトが主流となったことは注目に値します。

このLV7シリーズははとバスの一般仕様である座席11列、乗客定員55名のスーパーハイデッカーを可能にし、はとバスが求めていたポスト・スケルトンタイプとしての導入が決まりました。「スーパークルーザー」の純正ボディはアイ・ケイ・コーチが製造していましたが、前面に大きな1枚ガラスを採用したスーパーハイデッカーもラインアップされていました。この他に、富士重工の前面ガラスをダブルデッカー風に2枚に分割したHDII型や西日本車体工業製もチョイスできましたが、はとバスは1988年3月の6台を皮切りに、富士重HDII型ボディを架装したスーパーハイデッカーのバスを「スーパークルーザー」の呼称で1992年の春まで導入しました。最終的に計67台が導入され、貸切観光の台数口にも対応可能な一大勢力となりました。

「スーパークルーザー」はいすゞが純正ボディを架装する新型観光バスシリーズに与えたネーミングなので、同じいすゞのシャーシながら富士重ボディを架装するはとバスの車両は厳密にいうと「スーパークルーザー」ではないかもしれませんが、社内でも「クルーザー」の名で親しまれていました。

運用に当たっては、はとバスの一般車でしたが、まだスーパーハイデッカーが比較的珍しい時代でしたので、1977年に導入されたニューデラックスバス同様、定期観光は事前に決めた特定のコースで運行する案もありましたが、一般車両であることをアピールするため、あえてコースは決めず、ランダムに運用することになりました。それまでもダブルデッカーの運行実績があったものの、従来よりも背の高いバスの運行には細心の注意が払われました。運行当初は、JRの浜松町駅前ガード下など今では普通に通行している箇所でも乗務員はヒヤッとしていました。

はとバスの「スーパークルーザー」にもいくつかのバリエーションがあり、前面窓部分を黒く塗った車両、前扉の窓を開閉式にした車両、後部にスポイラーを備えた車両など外観上の違いがあり、更にシャーシもいすゞのP-LV719RとU-LV771Rのおみならず日野製もありました。

写真解説

写真①

徐々にスーパークルーザーの台数が増え、1990年代半ばには皇居の駐車場でニューデッカーよりもスーパークルーザーの台数が多い日も珍しくなくなりました。


写真②

スーパークルーザーは貸切観光の台数口でも大活躍しました。

写真③

石川県の千里浜なぎさドライブウェイを走行するスーパークルーザー。

写真④

1992年に導入されたスーパークルーザーの最終型です。シャーシはU-LV771Rで、リアスポイラーも備えていました。

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